鳥羽伏見之戦跡地碑 ~たくいた、淀を歩く Ⅳ~ [鳥羽・伏見]
今日も暑いですが、明日は、台風。
本のことを書いたり、華流ドラマのことを書いたり、天然理心流のDVDのことを書いたり、なかなか本来の「幕末紀行」に触れなかった新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
何でかって?
暑いと、ついつい億劫になってしもて…。
後、いいときの新選組を書くときは、テンション高めで書くんですが、鳥羽・伏見の戦い以降は、やっぱりテンション下がるんです。。
淀を何気に歩いていると、こんな石碑が建っておりました。
「鳥羽伏見之戦跡地碑」
後で分かったんですが、この石碑は、淀城の入城を認めてもらえなかった東軍の戦死者を弔うために建立されたものらしい。
このとき、ふと「黒谷さん」こと金戒光明寺の会津小鉄さんが、戦死者の供養のために、子分200名と共に奔走し、回向供養したということを思い出しました。
合掌
淀小橋跡 ~淀を歩く Ⅲ~ [鳥羽・伏見]
なんか、しょうもないスパムトラックバックというのか、多くて迷惑千万!
スパムメールは、時々、笑えるものもあるから許すが、これは、笑うところがなくてがっくりだ。
迷惑やから、やめてね!
先日買った、金庸先生の「射鵰英雄伝 第三巻」。読み終わりそうです…。
金無いのに…。面白すぎです。
中毒になってしまった。。
そんな感じです。新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ。
鳥羽・伏見の戦いを歩いているこのシリーズ。正直、暑いし、テンションは下がりまくりだし、辛かった…。
会津を歩いているときも、悲しい現実を垣間見て、寂しい気分で歩いているんですが、容保様や近藤局長、斉藤さんに見守られているような気がしたんで、頑張れるんですが、淀は、かなり辛かった。
淀小橋。
千両松激戦地で、敗走する東軍。淀城を目指すことになります。
そして、官軍が追ってくるのを妨害するため、この橋を焼いたそうです。
そのため、官軍は、船で宇治川を渡らなければならなくなりました。
実際に訪れると、暑さで頭が麻痺しているのか、「へ~・・・」くらいの感動しかありませんでした。
脱力したというか、無気力な感じになってしまいました・・・新選組隊士としては。
千両松激戦地 ~淀を歩く Ⅱ~ [鳥羽・伏見]
今日は、飯食ったら、久々、宇治か伏見にでも行ってこかな。
新選組副長助勤たくいたのブログへようこそ!
僕が、淀・樟葉を歩いたときも、空梅雨で、今日みたいに酷暑でした…。
暑いな~と思いながら、競馬場の裏手を目指す。
競馬場の裏らへんが、鳥羽・伏見の戦いでも、もっとも激戦地だったといわれる「千両松」です。
千両松というのは、豊臣秀吉が植えた松が見事だったことから、この名前がついたと言われています。
ここで井上源三郎さんが戦死。このとき源さん率いる組も、全員死亡(隊士たちが源さんを尊敬していたので、全員突撃したという…)。そして山崎烝さんは、大怪我を負ってしまう。
淀競馬場を京阪電車を挟んで裏手に、「慰霊碑」が建っているんですが、とても写真撮影できるような心情にならず、そこから競馬場の写真で我慢してください。
観光客気分で訪れたなら、写真の一枚も撮れたんでしょうが、僕には無理。
淀界隈は、なんか会津若松を歩いたときより、もっとどんよりとした気持ちになってしまう・・・
淀城 ~たくいた、淀を歩く Ⅰ~ [鳥羽・伏見]
今日は、朝から体調悪い…。
グロッキーな新選組副長助勤たくいたです。
これ書いたら、仕事の時間まで、少し横になります。
実は、先月、会津から帰京した後、淀から樟葉までの、「鳥羽・伏見の戦い」の後を歩いてきました。
あの時も、今日と同じように暑かった…。
丹波橋駅で京阪電車に乗り換えて、すぐに「淀」駅に到着。週末は、競馬ファンで、ごった返すんやろうな~なんて重いつつ、下車。
電車から見える石垣は、紛れもなく「淀城」です。
もともとあった淀城や、豊臣秀吉の側室の「淀君」の淀城は、違う場所にたっていたらしく、この淀城は、江戸時代、伏見城の廃材は、二条城の天守閣を転用して造られたらしいです。
外から見ると、なんとなく雰囲気のある石垣。
新選組をはじめ、幕軍が鳥羽・伏見の戦いで敗走し、老中稲葉正邦を頼って、ここ淀城に入城し、建て直しを図ろうとしたが、家老の「勅命がないと入城させられない」の一点張りで、入城できず。。。
稲葉といえば、あの春日局の稲葉やろ!?いつから、腰抜けになってしまったんだ!
しかし、駅から城に向かう間は、チャリチャリチャリ!風情のかけらもございません・・・
入城を果たすと、児童公園がありました。。
幕末の当時を、想像できなかった・・・正直。
もうちょっと景観守って欲しいです。児童公園なんか作ってんと・・・
ま、いいけど。どうせ稲葉のいた城なんで。